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2009年09月21日
おくりびと

 先程まで、MBSテレビで映画『おくりびと』が放送されていました。
 映画館で上映されていたときは、見に行きたいと思いつつも、結局行けないまま、上映が終わってしまいました。
 そして今日。まさか自分が父親を送ってから、この映画を見ることになろうとは思いも寄りませんでした。しかし、考えてみれば世の中何でもそうです。予め分かっていたなら、それぞれが望む好き勝手な世の中になって、グチャグチャになります。だから、人間には未来を見透かす能力を、通常は与えていないのでしょうね。
 父親の死を境に、「人の死」に対する考え方が変わりました。これまでは、生と死は全く別物で、臨終を境にして人が人でなくなる、別のものになるというような感じで捉えていました。また、死は忌み嫌うもの、こちらから近づいてはならないものといったようなものと思っていました。
 しかし、父の最期を看取っていて、少しずつ拍動の波が小さくなっていく。間隔があいていく。耳元で呼べば、それに反応するかのように心臓が動く。そんな姿を見て、目の前の存在自体に変わりはなく、ただ動かなくなっただけで、それ以上に何も変化していない(ように見える)。それをどうして忌み嫌うのか。その意味が分からなくなり、そうすることに意味がないようにも思いました。
 医師は臨終を告げても、動かなくなったという以外に何も変わらない。線引きが自分の中では未だにできていません。そもそも線を引くべきところがあるのかどうか。今、動くことのできる人間が動くことのできない人間を別物と勝手に決めているだけで、本来その差は存在しないのではないか。
 そんなことを考えていると、キリがありません。高校で使った倫理の教科書や、哲学の入門書を引っ張り出してきたりしましたが、掴みきれていません。
 映画の中では、広末涼子扮する主人公の妻が、納棺を終えて帰ってきた夫に対して仕事について問い質し、触れようとした夫に対して「汚らしい」と言ったシーンがありました。少なくとも自分の親を送った人にとっては出てこない台詞です。でも、ちょっと前まではそれに似た感覚を持っていたんですからね。
 この映画で、妻を送る夫役の山田辰夫さん、主人公を捨てた父役の峰岸徹さんは、共に彼岸の人となってしました。映画の中のように、ちゃんと送る支度をしていただいたのでしょうか。
 この映画をきっかけに、死について考えてみて下さい。

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