山津波の町へ
台風12号の襲来から2週間が経ちました。被災地では未だ復旧活動が続いています。今日、ようやく現地入りし、状況を見、復旧活動のお手伝いをしてきました。
今回、現地入りするまでには紆余曲折がありました。和歌山青年会議所のメンバーとして参加させていただいたのですが、雨の予報が出ていたために、前日の午前、派遣中止の決定がされました。しかし一転、天気が回復し晴れの予報になり、田辺市本宮の災害ボランティアセンターがボランティアの受け入れを決めたため、行ける者だけで行こうということになり、19時半から準備が始まりました。
5時半少し前に和歌山市を出発、海南インターから有田インターまで高速に乗り、金屋、龍神、中辺路を経て、本宮に入りました。
その途中、日高川沿いでも目を覆いたくなるような悲惨な状況を目の当たりにしました。ブルーシートをかけた民家や工場、建物の足元の土砂を流され傾いた建屋、流木や土砂に埋め尽くされた川岸、山積みされた大量の瓦礫や使えなくなった家財道具など。
瓦礫の山から出火したという話も報道されていたので、気にかかるところです。
道も土砂崩れなどで片側交互通行になっているところが何箇所もありました。簡易の信号が付けられており、一定の時間で交互通行できるようにされていました。直後にはアスファルトが盛り上がって、路面の白線が立体になっていた、という話も伺いました。
美山にある椿山ダムに着いたとき、ダムに漂着した流木の量に圧倒され、流木がひっかかっている位置にも驚かされました。ダム湖は一面、流木で覆われていました。よく見ると、流木の中に船が混じっているのも確認できました。大量の雨水が、まさにダムを超えんとしていたことが想像できます。
途中で白浜・田辺青年会議所のメンバーと合流し、9時頃には本宮行政局近くの公民館に到着。準備して、ボランティアセンターで登録を行いました。連休ということもあるのか、たくさんの方々が来ていました。登録が終わると現場へ移動します。
現場は熊野本宮大社の大斎原(おおゆのはら)です。大斎原に堆積した土砂の撤去が今日の仕事です。大斎原へ向かう道の両側には田んぼがあり、黄金色の穂がたわわに実っていました。不思議なことに、同じ場所なのに、田んぼによって稲穂が立っているところと倒れているところがありました。用水路は土砂で埋まっていました。
大斎原で集まると、作業の説明がありました。また熊野本宮大社の宮司さんからお話がありました。お話の中に「山津波」という言葉がありました。土石流とか言いますが、状況はまさに津波に襲われた後と同じで、東北の被災地の光景を重ねて見ました。
ボランティアの中に、福井県から来て下さったチームがいらっしゃいました。少しお話しすると、今日15人で来られて、明日までの1泊2日で活動して下さるそうです。全部で3班が入れ替わりで来て下さるとのことでした。
福井といえば、平成16年夏に福井も水害に見舞われました。私は当時秘書をしていて、党から1週間福井に派遣され、復旧のお手伝いをしました。一乗谷朝倉氏遺跡で土砂さらいの毎日でした。
引率されていた福井県の職員さんにそのことをお話しすると、「やっぱりお互い様ですね」とおっしゃって下さいました。本当にありがたいことです。
9時半過ぎから15時前まで、途中昼休憩を挟みながら、ひたすら泥さらいをしました。百数十人で行ったので、予想以上に捗り、少し早く終わることになりました。
写真では少し分かりにくいかもしれませんが、手前が泥かきを終えた元の地面、奥が泥かき前です。厚みがあるのですが、その分だけ山からの土砂が堆積したのです。それも一部分だけでなく、大斎原や周辺の田んぼにも同じだけの土砂が押し寄せているのです。
それらを人力でひたすら取り除きます。大斎原の縁に一段低くなっているところがあり、そこに手押し一輪車で泥を運びます。泥が溜まってくると、縁と泥の境が分からなくなり、つい泥の中に左足を突っ込んで身動きが取れなくなってしまい、助け出してもらいました。まさに「泥沼にはまる」を体験しました。
大斎原の近くには世界遺産熊野本宮館という紀州杉を使った観光施設があるのですが、その建物は水で襲われ、基礎の下の土が持っていかれたために傾き、あるところは沈んでいるように見え、あるところは浮いているように見える状態になっていました。職員の方に聞くと、このまま手を入れて使い続けられるかどうかも分からないと話され、疲れた表情をされていました。
長靴や道具についた泥を落とした後、白浜・田辺JCのメンバーに、本宮から熊野川沿いを新宮に向かって国道168号を行ける所まで案内してもらいました。
電源開発の発電所の看板は一部がなくなっていました。元々なかったのか、土砂で流されてしまったのかは分かりません。
紀伊半島名勝の一つである瀞峡を楽しむためのウォータージェット船の発着場になっている志古乗船場は土石流の被害を受け、その機能を失っていました。ぱっと見ただけで20人ぐらいのボランティアらしき人が掃除のお手伝いをされていましたが、再び使用できるのか、分かりません。観光の拠点が失われると、その後の地域経済の再生に大きな支障となることは、容易に想像がつきます。
続いて、道の駅「瀞峡街道熊野川」へ向かいました。残念ながら、写真の通り、原形がどうであったのか、全く想像できない状態になっていました。丈夫であるはずの道路標示用看板さえ、なぎ倒されていました。ここから先、倒木のため通行止めになっており、新宮へ進むことはできませんでした。
道の駅の向かいにあった民家は、地震でなったのか、津波でなったのか、山津波でなったのか、判別がつかない状態でした。
本宮へ戻る道の途中には、船が電柱に引っかかっている状態で残っていました。
最後に熊野川行政局近くに架かる三和大橋を見に行きました。この橋は、洪水で浸水しないように、わざわざ高いところに作られた橋です。見えにくいかもしれませんが、橋の橋脚にスケールが貼られてあり、下から黄色のシールが1つと、赤のシールが2つ貼られてます。黄色のシールは「注意」と書かれており、川底から5.6mの高さにあります。一つ上の赤のシールは「避難」と書かれていて、避難開始の指標となる水位で、川底から8mの位置にあります。一番上の赤のシールは「危険」と書かれていて、川底から10.6mの位置です。文字通り、ここまで来ると危険です。
しかし、橋の欄干を見ると流木が引っかかっています。橋の裏側にもたくさん引っかかっていました。目測で、橋脚の「危険」の位置から2倍以上の高さはあると思われます。その位置まで水が来ていたことになります。
今、自分が立っている場所も水没して、まだなお高さがある。一体どれだけの水がここを流れていったのか、想像はできましたが、とても実感できず、分かったような分からない感覚に襲われました。ありきたりな言葉しか見つかりませんが、想像を絶する状況の痕跡です。
今回、実際現場へ行かせていただいて、報道だけでは分からない状況を知ることができました。写真と文章でできるだけ伝わるように書いたつもりですが、しかし実際に行って見ていただくのが、一番理解していただけると思います。ぜひ1回でいいので、現地へ行って復旧活動に参加して、帰りに現状を見て来て下さい。
いくつかの課題も見つけました。これは別稿で書きたいと思います。
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